『ブギウギ』も第21週目に入り、スズ子は「ジャングルブギー」もヒットさせ、ついに映画デビューすることに。
芸能記者の鮫島により、りつ子とスズ子の関係が微妙になりはじめます。
スズ子とおミネの時のようにまた鮫島に仕掛けられてしまいます。
今回もスズ子の明るい性格で乗りきれるのでしょうか。
それでは茨田りつ子のモデルである淡谷のり子と笠置シヅ子の実際の関係はいったいどのようなものだったのでしょうか。
今回は2人の関係について深掘りしていきたいと思います。
淡谷のり子のプロフィール
◇ 本名:淡谷のり
◇ 生年月日:1907年8月12日
◇ 出身地:青森県青森市
東洋音楽学校ピアノ科に入学、後にオペラ歌手を目指して声楽科に編入し、昭和4年に首席で卒業。同年春の「オール日本新人演奏会」で歌唱し“十年に一度のソプラノ”と絶賛された。
1937年には服部良一作曲「別れのブルース」が大ヒット。翌1938年には「雨のブルース」もヒットし、“ブルースの女王”と呼ばれた。
日本コロムビアより
晩年まで活躍していて、メディアにも登場し、ものまね番組などの審査員をしていて昭和生まれの方であれば知っている方も多いのではないでしょうか。
淡谷のり子と笠置シヅ子の関係
ひとまず淡谷のり子と笠置シヅ子との2人の経歴と音楽スタイルの違いを見ていきましょう。
2人の功績
まず、1937年に淡谷のり子が「別れのブルース」を100万枚の大ヒットさせて、一気にスターになります。
そして、笠置シヅ子が1947年に「東京ブギウギ」を発表します。
ブルースの女王、淡谷のり子とブギの女王の笠置シヅ子は違う道で有名になっていきます。
この時間の差は実に10年、戦前と戦後で世の中もだいぶ変わってしまっているでしょう。
笠置シヅ子が有名になる10年も前から、淡谷のり子は大スターとして存在していました。
年齢も淡谷のり子が7歳年上で音楽業界の大先輩という関係で、笠置シヅ子は淡谷のり子に憧れを持っていたようです。
2人の音楽スタイル
淡谷のり子は舞台上では静かに切々と歌い上げるブルースタイプの歌手で、笠置シヅ子はステージ上で激しく踊り歌いながら観客を巻き込みながら歌い上げるスイングタイプの歌手で全く違うタイプの歌手でした。
そんな自分とは全く違うタイプの歌手を淡谷のり子は笠置シヅ子のスタイルを批判することもあったようです。
ライバルのように見えますが、ただこれは見方を変えれば、勝負している土俵が違うといった見方もできるかもしれません。
実は認め合う存在だった?
時代背景の違いや、歌手としてのスタイルの違いがあり、周りはライバルとして2人を煽りますが、お互いに、服部良一に師事していた共通点、そして、お互いに娘を持つシングルマザー、という共通点があります。
7歳の年の差はあっても、娘を持ち育てる母親同士で分かり合えたこともあったかも知れません。
笠置シヅ子が娘を出産する数日前に父親は他界していて、一方、淡谷のり子も娘さんの父親に関して「娘が出来たことも知らずに、中国で死んでしまった。」と語っています。
同じような境遇の2人は、きっと共感できることもたくさんあったのではないでしょうか。
そしてお2人は晩年までお互いを友人同士として交流を重ねたとのことです。
実際にお互いの家を行き来するようなこともあり、その時に淡谷のり子が笠置シヅ子の娘に「お母さんに感謝しなさいよ」と語っていたようです。
まとめ
同じ歌手ですが、ステージ上でのパフォーマンスなどスタイルが違う二人。
ただ、2人とも服部良一に師事していたり、お互いに娘を持つシングルマザー、という共通点もあり、共感できることもたくさんあったのではないでしょうか。
歌手というプロだからぶつかる事もあったでしょうが、ステージを降りたら一人で娘を育てるお母さんとしてお互いを認め合い、時にはライバルとして、交流も深めていたのではないでしょうか。