『偉人の年収』初代内閣総理大臣 日本に憲法を作った伊藤博文 3つの意外なエピソード

伊藤博文のサムネイル エンタメ
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今から約140年前に内閣制度を設け、初代内閣総理大臣となった伊藤博文

日本初の近代憲法、大日本帝国憲法を作り、選挙で選ばれた国民の代表が政治に参加することを定めました。

そんな伊藤は固定概念にとらわれず新しいものを取り入れる柔軟な発想の持ち主でした。

そんな伊藤博文の簡単な歴史と、意外なエピソードを3つほど紹介していきたいと思います。

伊藤博文のイラスト

伊藤博文ってどんな人

伊藤は明治維新後の日本をリードし、日本を近代化に導いた立役者です。

百姓として生まれましたが、日本とアメリカが結んでいた日米修好通商条約という不平等条約に疑問を持ち、吉田松陰のもとで尊王攘夷という思想を学びます。

尊王攘夷とは日本に迫る外国を追払い、天皇中心の国を目指すという考え。

その後、造船・軍事技術を学ぶためイギリスへ。

その時の留学に行った5人の留学費用はなんと一年で今のお金で1億3000万円。

ロンドンの文明の繁栄ぶりに圧倒され、尊王攘夷という考えをあっさりすて西洋文明を吸収することに。

伊藤博文はロンドンで英語を学び数か月で日常会話ができるようになり、帰国後は海外との貿易の窓口となっていた神戸がある兵庫県の知事になります。

その後ロンドンで見た鉄道を文明開花の象徴として日本の鉄道工事に着手。

電車のイラスト

そして幼い頃から異議を唱えていたアメリカとの不平等な条約の改正へ胸に岩倉使節団の通訳という形でアメリカへ。

そこで日本にはないアメリカ国民の権利が憲法というもので守られ、アメリカの近代社会を形作っているのが憲法であるということに実感します。

1882年に憲法研究のためにヨーロッパへ。

帰国後、内閣を作り自ら初代内閣総理大臣に就任。

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そして1989年2月11日に日本初の大日本帝国憲法が誕生します。

言論や集会の自由などの国民の権利が認められお祭り騒ぎに。

その後幕末に結ばれた不平等な条約も解消されていきました。

伊藤博文の3つの意外なエピソード

日本に内閣を築き、憲法を作り、西洋と肩を並べることができるような近代国家にした伊藤博文。

彼は様々なことを成し遂げた偉人ですが、意外なエピソードを3つ紹介したいと思います。

フグ料理の解禁

フグのイラスト

昔から毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を1888年に周囲の反対を押し切って下関で食べた際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用商用のきっかけをつくったと伝えられている。

箱型ランドセルの産みの親

ランドセルのイラスト

当初の「ランドセル」は、リュックサックに近いものでした。

それが現在のようなしっかりとした箱型ランドセルに変わったのは、明治20年のことです。

大正天皇の学習院ご入学のお祝いに、当時の内閣総理大臣、伊藤博文が箱型の通学かばんを献上したのが、ランドセルの始まりだとされています。

大の女好き

女好きのイラスト

女好きは当時から有名であり、女遊びの相手が掃いて捨てるほどいたことから「ほうきというあだ名がついていました。

時には明治天皇にすら「少し女遊びを控えてはどうか」と咎められたこともあるといいます。

40度の高熱の病におかされているときでも両側に芸者2人をはべらせたというほどの女好き。

日本で初めて車で事に及んだ人物とも言われています。

まとめ

今の日本の原型を作った伊藤博文。

固定概念にとらわれず、いいものと思ったら取り入れる柔軟性が色々と新しいものを生み出していったのではないでしょうか。

激動の中を戦った伊藤博文、それが今の日本の礎になったと思うと感慨深いものですね。

その裏で彼の柔軟性により意外なおもしろエピソードも生まれていったのではないでしょうか。