今日は『光る君へ』第5回からの疑問。
前回、五節舞でまひろが舞を踊っているところに、気になっていた三郎と母の仇である道兼を目撃してしまい、色々な感情が込み上げ気を失ってしまいます。
その後死んだように眠っているまひろを心配した弟の惟規(のぶのり)とその乳母のいとが、病気の治療をするために験者(げんじゃ)をよんで祈祷をしてもらうということがありました。
現代の人からしてみたら少しインチキ臭く感じたかもしれないシーンでしたね。
では平安時代の当時は病気になったらどう治療していたのでしょうか?
そんな疑問を今日は深掘りして見たいと思います。
平安時代の病気の治療方法
平安時代は今のような医学の技術が進歩してはいなかったのは明白ですが、主に二つの治療方法があったと言われています。
医学による治療方法
平安時代の頃にはすでに中国から医学に関する情報がもたらされていたと言われています。
平安時代では、その医術を発展させ、治療に活かしていたといわれていて、その医術をおこなう人たちのことを医師(くすし)と呼んでいました。
そして医師は当時の国の機関であった宮内省に属していたと言われています。
その治療方法も「投薬」「針」「灸」」といったさまざまなやり方があったことがわかっています。
呪術による治療方法
平安時代では医術のほか、呪術による治療方法も取り入れられていました。
ここでいう呪術とは、神仏の力を借りることをいいます。
神や仏に祈りを捧げることで、病気を患った人たちの原因をつきつめ治療をする方法です。
そして、この呪術を行なっていたのが「験者」と「陰陽師」です。
験者は僧侶の一種で、知識や技術に優れていた人たちのことを指します。
一方、陰陽師とは、公的機関に属していた人たちのことを言います。
もともとは「暦数」「天文観測」などを専門としていましたが、次第に呪術もおこなうようになりました。
平安時代にはポピュラーだった祈祷
清少納言が書いた「枕草子」にも験者が出てくるエピソードがあります。
急な病人が出てしまって、いつも治療をお願いしている験者が見つからなくて探しまわるという話があるのですが、当時の人にとってはそれくらい験者に直してもらうということは当たり前だったようです。
「百錬抄」という朝廷の歴史書の中によると一条天皇の皇女の当時4歳の媄子内親王の鼻の中にサイコロをつまらせますが、験者が呼ばれそのサイコロをとったということが書かれています。
現代の人からしてみたら鼻につまらせたサイコロと験者は関係ないような気がしますがで、当時はその験者に褒美が与えられました。
まとめ
現代のレベルには及びませんが、平安時代にも中国からやってきた医学がありました。
それ以外にも呪術という病気の治療法があり、当時の人はそれに信頼をおかれていました。
現代においても平安時代ほどではありませんが、神頼みというものがあり、人々は神社に行ってお祈りをすることはありますよね。
その時代によって病気に対するアプローチはそれぞれ違うように、平安時代には平安時代の病気に対するアプローチがあったようです。